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下総航空基地開設57周年記念行事見学記~お土産編 [飛行機]

今回は前記事に続いて、先週訪れた海自下総航空基地の開設記念行事オープンハウスで買って来たお土産編であります。お土産と言ってもほぼ自分用ではありますが・・・
買って来たのは下画像の3種。

いつもは覗くだけだったのですが、今回は何だか物欲の神様が舞い降りて来たのか?ちょいと買い漁ってしまいました。
と言っても、下総ゆかりの物は一つしかありません・・・


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下総航空基地開設57周年記念行事見学記 [飛行機]

今回は、先にちょろっとお伝えした先週土曜日の海上自衛隊下総航空基地の開設記念行事の基地開放見学記です。

何だか4年も続けて行くと、細かい所で過去記事と重複したりする所も多々あるとは思いますがご勘弁のほどを・・・
今回は自宅を朝8時過ぎにクルマで出発。現着は9時ちょっと過ぎでしたが、入場待ち渋滞も無くスルスルと基地IN。朝一の光景が下画像。

開場直後なので閑散としている様に見えますが、終日こんな感じだったりして。
寒い雨降りだった前日と打って変わった陽気で良かったと思ったのですが、気温はまぁまぁでしたが、空はその後曇天になったのはちと残念だった所。

10時からの開設記念行事は、まぁハッキリ言って身内向け行事なため、この時間を使いおいらは献血会場へ。

以前ここで献血しようとした所、献血を断られるほどの高血圧が発覚。その後すぐ通院し今は平穏なおいら、今回もお礼奉公のつもりで献血して来ました。朝も早い時間なので待ち人も少なくちゃちゃっと終了。
しかし自衛隊の同様なイベントで献血車が来ているのって、下総以外は殆ど聞いた事が無いな~。

さてさて、献血も終わったので改めて会場内をウロウロすると、例年以上に寂しい外来機と飛行展示。

例年なら何回か航過するP-3Cの編隊も1回だけだし、陸自の空挺降下も無し。
前週の観閲式の関係なのでしょうか?陸自の外来機自体も少なかった。

海自自体の外来機も3機のみ・・・厚木からはP-1が来ていましたが、もうそろそろ見納めだろうUS-1が見たかった。
少ない外来機の中で、ちょっと「旬」だったかな?と言えばこちらかな。

TC-90練習機。機材更新に伴なう剰余機をフィリピン海軍へ供与するなんて報道があったのが今年の春くらいでしたか・・・
練習機なので武装とかはありませんが、足の(航続距離)長さを買われて紅いかの国を牽制するべく哨戒機として使用されるとの事。
当初予定では「供与」の予定でしたが、国内法の関係で無償供与は出来ず有償はフィリピン側が難色を示し、苦肉の策?で「貸与」と言う事に落ち着いたとか。

それにしても、今年は展示方法も変わってまして、いつもなら規制線が機体を取り囲んだ形なのでグルグルと見学出来たのですが、一般的な航空祭の様な前から眺めるのみと下総らしさが無かった。
と、航空基地に飛行機を見に行くと言う点では物足りない感が多いですが、その関係か混雑度も少なく、近在の方々向け「秋祭り」的な位置付けなんですかね~。

例年大混雑な空自入間基地(今週でしたね)とか、最近大分行きやすくなった物の開門ダッシュにはクルマ必須且つ、埼玉からでも深夜には出発しないとタイヘンな空自百里基地に比べると、その辺の公園なんかに遊びに行く感じでアクセス出来る所が良かったりして。

展示飛行は少ない物の、体験搭乗の機体が結構頻繁に離着陸を繰り返すので、レジャーシート敷いてのんびり見学している親子連れな方が結構多いのも微笑ましい光景。
行くだけで疲れたり、行った後妙に疲れたりと言う事も無くリフレッシュ出来る航空祭って中々無いのでは?
機会がありましたら是非一度行って見て下さい。


続いて、おまけなスナップ集であります。

展示機体のそばを廻る「花電車」が毎年運行されていて、例年結構な人気です。
乗り場の脇に花電車メイキング画像集が掲示されてました。


花電車の乗降口が設けられてい格納庫には、今年もP-3Cのエンジン回りが展示物代わり?に置かれていましたが、今年はエンジン付きでした。

展示と言うよりは、休み明けに換装するための準備だったりして。

今年初見だったのは、YS-11の操縦席回り。

以前所属していた205航空隊の教材だったのでしょうか。周辺には往年の光景を展示するパネルが置かれていました。

右の滑走路上のポスター、売ってたら欲しいな~。


地上展示も2年目になった対潜哨戒機P-1

去年は仕事の合間の駆け足訪問かつ、コンデジのみだったので、今回は望遠で注意書きをのぞきまくっていると、ウオッシャータンク発見!

どんなウオッシャー液を使っているのだろう?クルマ用より強力な物じゃないと役不足な感もするし・・・うーん。

空自からは唯一の飛来機、C-130H。今年も海外派遣色の機体。


航空祭恒例の窓辺に置かれたGIジョーを見て、「やってるやってる」なんて思いつつ他の機体の方へ移動。30分ほどして再びC-130の前を通り掛かると・・・あれっ。

1体増えてる・・・傍らにいた空自の方に聞いて見ると、最初は反対側に置いていたのですが、右側ばかり目立つので移動したとの事でした。
そういえば、ホストなここ下総所属P-3Cはリラックマがお約束だった筈ですが、今年は見かけなかった様な。


ここ下総基地からも見る事が出来るスカイツリー、いつも飛行機と絡めてカメラに収めようとしているのですが、今年も曇り空でハッキリと行かず・・・

残念。


またダラダラ続けてしまいましたが、この辺でお終いに致しますです。お付き合い下さりありがとうございました。






次回は、お土産で買って来た物他のご紹介編です~。

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今日の報告 [飛行機]


今日は首尾よく仕事を休み事が出来まして、予定の通り海自下総航空基地開設57周年記念行事(基地開放)に行く事が出来ました。

今年はここ数年より一月遅い開催なので、冬服の黒服なのがちょいと趣きが違う所が新鮮でしたが、外来展示機や一般向けの飛行展示等がずいぶん寂しい構成だったのはちと残念でした。

まぁ、今回の主目的は「献血」なおいら。こちらは無事血ぃ抜いてもらう事も出来ましたので、個人的には天気もまぁまぁだったし結果オーライと言った所であります。
流石に4年も通うと、詳細と言うほどのネタも尽きかけて来ましたが、詳細は追ってご報告します。




おまけ
記念式典の行進待機中の隊員方。

陸自と違い、海自ではまだ主力な64式小銃を携えて待機中。


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【河口湖】『中島』つながり電撃戦②【所沢】 [飛行機]

前記事からの続き、今回は先週火曜日に訪れた埼玉所沢の航空発祥記念館の企画展、「中島飛行機の傑作戦闘機たち」見学記になります。

館内に入ると、お子様用記念撮影ウエルカムボードがお出迎え。ちなみに、この辺はオープンスペースのロビーなので自由に出入り出来ます。

上画像右手側の入館口で、入館料を支払い入館。
以前行った「零戦」の時とは違い、今回の企画展は入館料510円のみでOK。

中に入ると、特に企画展や特別展用に設けられた区画が元々存在しない当館なので、企画展示エリアが解るように?ゲートが設けられていました。

ゲート門柱は、当時写真で良く目にする工場入口写真の物を大きくして実物大?位に細工してありました。確かまだ「中島飛行機研究所」時代の頃でしたっけ・・・

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【河口湖】『中島』つながり電撃戦【所沢】 [飛行機]

火曜日敢行した、電撃戦ツアー詳細編です~。

先日自宅に届いた、所沢航空発祥記念館の企画展「中島飛行機の傑作戦闘機たち」と、毎年8月のみの公開な河口湖自動車博物館・飛行館の見学を一気にしてしまおうと言うのが今回の企画。
所沢は丁度自宅から河口湖へのルート上に所在するのと、両方ともすでに何回か訪れているので気になる所だけの滞在時間なら一日で回り切れてしまうだろうとの目算。

今回はあかびびおが直前に判明した不具合のため、急遽借り出したクルマでの行程。ナビなしクルマなのに地図を積み忘れてしまったのに気付いたのが出発後・・・
「去年とほぼ同じ道程なので大丈夫だろう」と高を括っていたら、恒例?なミスコース散発。

まぁ、そのお陰で余禄もあったのであまりシボんではいないひまねねです~・・・

まずは、河口湖の飛行館に向け出発。今回は出発がやや遅く、朝6時半。
昨年同様なルートでしたが、やはり遅めの出発時間が通勤時間帯に重なったりとかの理由で、河口湖現着は10時半・・・初めての開館時間後な到着でした。

まずは毎年8月ちょっと前に更新される飛行館HPの記載に、今年は・・・
新たに主翼と操縦席を展示し、
エンジン、胴体と合わせてご覧いただけます。
と書かれていた中島飛行機製の旧陸軍一式戦、「隼」をメインに見て来ました。

零戦とやや構造が違う主翼の骨組みを見比べる事が出来るかと期待していたのですが、残念かなすでに外板も貼り付け済み・・・残念。
後部胴体は置き場が無いのでしまっちゃったのか?おいらが見落としたのか見かけず。
最初に訪問した頃よりも、復元完成等でかなり収蔵物が増えて来たここ飛行館。この先どう言う展開になるのかな~・・・と気になる所であります。

他の展示には顕著な変化も無い様子なので、去年予算の関係で買えなかった冊子「陸攻よ甦れ」を購入し、40分ほどの滞在で所沢に転進。




途中、道の駅富士吉田へ立ち寄り富士山からの伏流水をげっと。
こちらの水汲み場の存在は、去年の道程で知っていたので今回は容器持参。
水温が低いので、水を入れた直後はこんな感じ。

冷蔵庫から出したばかりの様な冷え具合。
その後は山中湖からR413道志みちに入り、圏央道相模原ICまで行きに辿ったルートを戻ります。この時点でお昼ちょっと前位な時間。

本来の計画では出発時間ももう少し早かったので、航空公園のすぐそばの所沢市役所の食堂でランチの予定でしたが、行きに道を曲がり損ねた関係で、たまたま見つけた初見のラーショで昼食。

当初の予定よりも時間が遅かったので、この選択はグッドでした。この辺りで時間は午後1時。
この「ラーショ」のお話はまた後で・・・と言ってもラーメン画像はいつもの様にありませんが。

入間ICで高速から下りて所沢方向へ向かったのは良いのですが、到着直前にまたもや道を間違えてしまい所沢駅周辺をウロウロ・・・ようやく航空記念公園に到着したのが3時ちょっと前。


あまり期待はしていなかったのですが、思わぬ隠し玉が文字通り「転がって」いたのにビックリしたひまねねでした。それはと言うと・・・



「2」に続く。



おまけの一言
この文言って、どうよ?・・・

河口湖飛行館で隼の脇に掲げられていたボード。
現地ではじっくり読んでいなかったのですが、帰宅後画像チェックしつつ文言を読んで見ると、上三行の下りはおいら的に意味不明・・・

まずは、

「海軍のゼロ戦と同じ戦闘機だが別々に作られ」

の下り。
この辺境のブログにたどり着く方は良くお解かりだとは思いますが、この辺は良心的に解釈して翻訳?すると、

「海軍のゼロ戦と同じ当時を代表する戦闘機だが、それぞれ別々に設計製作された別々の機体です」

って所かな~。

続く文言、

「陸軍と海軍の戦争の始まり!」

は更に難解な文言。

当時の陸海軍の確執は見聞きしたりしてますが、この文言だと内戦が勃発したのかな?とも読めちゃったり・・・
この辺りは・・・

第二次世界大戦「太平洋戦争」(又は「大東亜戦争」とか・・・)が始まった時、それぞれ陸軍海軍の主力機として活躍しました!」

追記・スイマセン・・・第二次世界大戦と言う戦争が勃発したのは欧州方面がきっかけでした・・・取り消し線入れときますぅ~
なんて表記が良いかな~・・・なんて思ったりするのですが、どうでしょう。両方合わせて見て・・・

「昭和17年、陸軍に制式採用された戦闘機。海軍のゼロ戦とは別々に設計製作されました。それぞれ、太平洋戦争開戦時の主力機でした。」

って文言は、どうよ?
ストック画像を見ていると、去年も同じボードが合った様子なのですが、去年も今年も精査してませんでした。

中で気が付かなかったので、中の人には提言していませんが、緻密な考証や収蔵では日本一であろう河口湖飛行館にしてはちょっと?な解説ボードでした。誰が書いたんだろう?

所沢からの手紙2 [飛行機]

先週、所沢の航空発祥記念館から開催間近な企画展のDMが届きました。

ガッキーポスターミタイニジブンヤハイケイハウツリコンデイナイナ・・・ヨシヨシ

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所沢からの手紙 [飛行機]

自宅に届いた一通のDM。

所沢の航空発祥記念館からで、ちょっと前から始まった企画展のお知らせハガキでした。
何年か前の、「零戦来日!」の時の組み立て公開の抽選で応募していたデータで送られて来た様子。

興味も沸くけど、何かイラストの大戦機の絵にちょっと違和感が・・・良く見りゃ、上の6機は全部三菱製だったりして。まだ「堀越効果」狙ってるのかな~・・・なんて邪推もちょっと。
「航空発祥」のここ所沢なのに、陸軍機のイラストが「新司偵」(100式司令部偵察機、陸軍機ではあるが、海軍でも使用された)だけなのも、うーん・・・

一番上の文言、「日本が世界に誇る傑作機のスゴさ!」と言う所で揚げ足取ると、素性は良さそうな物の、実戦には残念かな間に合わなかった「烈風」よりも、最後っ屁程度ですがいくらかの戦果を挙げた、「紫電改」とか陸軍の「五式戦」なんかのイラストが欲しいかな?と思うおいらではありますが、この辺りの機種構成の方が今時の方々にはウケが良いのかな?とも思ったりして。

まぁ、行きもしないであれこれ書くのも何なのでこの位にしておきます。会期も長いので、時間が取れれば行く予定。
所沢航空発祥記念館公設の企画展HPは「こちら」です~。





ついでなひとり言

ハガキの下にあった「協力」の羅列の中に中田商店の記載が。
「旧軍衣装の販売でもするのかな?」なんて思ったのですが、企画展HPを見ると、搭乗服姿でコスプレし、零戦コクピット(レプリカ)に搭乗できるコーナーがある様なのでその辺の衣装協力なのかも?

零戦コクピット(レプリカ)・・・映画「永遠の0」のセットでも持って来たのかとも思うのですが、協力に名を連ねている、千葉は成田の航空科学博物館にもインチキ臭いですが零戦操縦席部分のレプリカがあった事を思い出しました(成田の物は、こんな感じでした)
どんな物が置いてあるのかは、まだネット上では確認出来ず・・・

ただ、上画像からは切れてますが企業名の他に個人名が一つありまして、この方は零戦の関係では知名度のある方(Nはら君じゃないよ)なので、もしもこの方が監修されているのならレプリカと言えども乗り込む価値はあるかな?とも思うひまねねであります。

ちなみに、「永遠の0」は原作及び映画共未見です。



「日本が世界に誇る傑作機」・・・太平洋戦争敗戦でズタズタにされた航空機産業なので、純国産の民間機が少ないのは致し方ありませんが、当時の軍用機でも実戦に間に合わず結局試作機で終戦を迎えた「烈風」より、少なからず?活躍した機体も多々あったりして。

ひまねね的には、上述の「紫電改」「五式戦」の他だと、海軍では零式観測機とか艦上偵察機「彩雲」。陸軍では二式単戦「鐘馗(しょうき)」や、かなりマイナー機種ですが三式指揮連絡機とかが「推し機」だったりして。


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越谷の飛行場跡探索・その3 [飛行機]

だらだら続く(あうっ)飛行場跡探索編その3。
今回は周囲に残っていたりいなかったりする痕跡の探索編や、おいらが感じる「?」を推定して見た等であります~。



飛行場跡をぐるりと徘徊してから、周辺に当時作られていた附帯設備の方向へと転進。
終戦直後の航空写真には、滑走路エリアからやや離れた所に附帯施設らしき物が写っています。

(出典:国土地理院航空写真)

画像右側の飛行場エリアから、左(西)の方に結構幅広な通りと道路に面する広場状の物がありますが、こちらが当時飛行場に附帯して作られていた、飛行機掩蔽用エリアとの事。
滑走路北エンド辺りから約1.5キロ程の距離があります(ルートラボでの測定)。

駐機スポットの様な広場があり、取り付く道の形状も直線と緩やかなカーブの組み合わせとなっており、この辺りは誘導路その物な感じです。
さらに、上画像左側の部分にも工事中の様な道が散見されます。この辺りは現地はちょっとした丘状なので、秘匿用の掩体設備でもこしらえる計画でも合ったのでしょうか?
ですが、この辺りは基地その物と同様に未完のまま終戦になった様子。

今現在の地図では、道路の巾や取り付きも変わっていて痕跡はあるのか不明でしたが、せっかくなのでちょっと足を延ばして見たのですが・・・やはり、当時の痕跡は殆ど窺い知ることが出来ませんでした。

上画像は、水上公園横の道から該エリアを遠望した図。
画像奥のちょっとこんもりとした丘状の辺りが探索しようとしているエリア。

ちょっと前に通った水上公園西端から目的地方面へ向かったのですが、ちょいと道を間違えてしまい、ちょっと南の方に行ってしまいました。

上画像中央の大きな白い屋根の建物は、当時の村名が残る新和小学校の体育館。
当時の航空写真では、この辺から緩く北側(上画像の右手方向)へカーブする道が分岐しているのが見えるのですが、今はもうありません。

上の航空写真中央辺りの、正に誘導路的なT字路の現況が下の画像。

流石に70年も経つと全然痕跡もありませんでした。
当時は、多分最低限戦闘機クラスが移動出来る位だとしたら巾10メートル位はあったであろう道も今は普通に良く見る田んぼ脇の田舎道。

隠蔽駐機用として整地された辺りは、今でも面影が残る所もあるとか聞きましたが、公道面からでは窺い知れず・・・
本来の計画では、最後にちょっと離れた所にある飛行場の遺物を見学してから帰路に付つく予定だったのですが、ちょいと時間が押して来たのと何だか疲れてしまったのでこの日はこの辺で徘徊終了。

残る一箇所ですが、たまたま徘徊した数日後に仕事で付近に寄る用事が出来(おぅ~)、及び駆け足ながら探索できる位な時間がタイミング良く舞い降りて来たため(ホントだよ)、上手く探る事が出来ました。

こちらは、滑走路跡北端にある水上公園歩道橋から直線距離で約6キロ(こちらもルートラボにて計測)離れた所にある、さいたま市岩槻区は南平野の稲荷神社。

神社のすぐ脇、元荒川に沿った川沿いの道に面して建っている石碑。
この素材に飛行場滑走路のコンクリートを使用しているのです。

碑名は、「興農事業完成記念」。昭和26年建立な様子。

川に面した表側?には、昭和23年から始めた周辺の農地改良事業の内容が刻まれた碑文、裏側には発起人?の方に対する村民の謝辞?が刻まれた碑文がはめ込まれているのですが、碑その物が滑走路(だった所)から剥がしたコンクリートだとか。

確かに、碑の表側は地表側みたいなやや平滑で、

裏側はゴツゴツしてたりします。

今回、この碑文裏表を収めた画像から書き写してご紹介しようと思ったのですが、ちょいと判別が出来ない所があり今回は割愛・・・この稲荷神社境内、他にも何だか興味惹かれる物があるので再訪予定。
再訪し、判別出来ましたら、この記事への追加若しくは新ためてご紹介する予定ですので、当てにしないでお待ち下さい~。




おまけ集・よかったら覗いて下さい


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越谷の飛行場跡探索・その2 [飛行機]

前記事からの続き、「越谷陸軍飛行場」周辺の徘徊記録その2です。

南東の営門跡とおぼしき所から、反時計回りで当時基地外周に設けられたと思しき排水路伝いに廻って行く事にしましたが、東北から北側は再開発が進んでおり上手く辿る事が出来ません。

南から北に進んで行くと、越谷市のリサイクルプラザ(粗大ゴミ受入施設)が左手に見えて来るのですが、上画像がその建物の向かい辺りの光景。

道から斜めに用水路が伸びていますが、これが当時の基地外周とおぼしき痕跡。
この用水の取り付き方向が、当時の滑走路の向きとほぼ平行な南北方向。

自転車では用水に沿って進めないので、最寄りの道で北に向かいますが、この先北端部は運動公園や水上公園および高校の敷地等が広がり、すでに外周跡に沿って進む事は出来ません。なのでショートカット。

上画像は、滑走路北エンドのターニングサークルと誘導路が交わっていた辺り。
この駐車場北側にある道を西に進むと、水上公園の脇辺りで当時の外周排水路とおぼしき用水路が再び合わさりますが、この辺りから市境を越え、さいたま市岩槻区になります。

上画像の水路が、当時の外周とおぼしき水路で、右奥に見えるのが県立越谷北高校の校舎。

西側の岩槻側は、当時とそんなに変わっていないかの様な田んぼが広がる光景。高い建物も皆無なので、ちょっと先にある埼玉スタジアムが良く見えます。
その先、西側の外周跡に沿って南下して行った所で見つけたのが、この飛行場の通称名の一つな「論田」の名前が入った電柱。

「論田」と言う地名。無くなって久しい様で、この電柱の表示以外にはお目にかかる事は出来ませんでした。ネット検索でも上手く引っ掛からず・・・
補足ですが、もう一つの通称名の「新和」は今でも小学校の校名として存続しております。

さてさて、外周跡らしい道と言うか、所々あぜ道みたいな所を進んだ先の南端エリアが、当時の遺構が一番残っているエリア。

滑走路南エンドのすぐ西に、コンクリートの基礎と格納庫の痕跡らしい物が今も残っていました。

コンクリート基礎は、通信塔の基礎なのかなと思いますが詳細不明。その背後の林状の所が当時の航空写真で見る事が出来る格納庫らしい建物が所在していた所。

コンクリ基礎は、稲刈りも終わっていたので近くまで寄って観察して来ましたが、浅学なおいらはやはり詳細不明に終わりました。

入れられた砂利がかなり粗い・・・この辺は後の構造物でも顕著に見受けられます。

夏に見かけた、桶川はホンダエアポートの敷地の片隅にある物と形状が酷似しているのですが、どちらも詳細不明。
ご参考までに、桶川の画像は「こちら」です・・・

格納庫?だった辺りは、菜園が広がっていたので近くまで行かずでした。

しかしこの格納庫エリア、設けられた誘導路とは逆の位置に所在しているのが解せないおいら。
航空写真で見ると、滑走路の巾が公称値60メートルと言われていますが、その巾に匹敵する位の間口なので、まぁまぁな大きさの格納庫が所在していた様子。

現在の航空自衛隊基地で見られるような、スクランブル発進用(当時は、「警急隊」なんて呼んだとか)として設けられたのか・・・?でも、物量の差が圧倒的に違う時期にそれは無いかな?
それとも、当初はこの一角に格納庫や基地施設を作る予定だったのが、地勢の関係で紆余曲折の結果こんな中途半端な配置になってしまったのか?

詳細な工事資料でも残っていれば、その辺も定かになるのでしょうがね~。

閑話休題、先に進みます。
この日(11月3日)はそのまま滑走路跡道路方向に進んだので、その前週の下調べ時の画像で南端の池等を紹介します。
このエリアの南に当時作られた調整池、「新堀池」。国道463号バイパスの建設で大分面積が減りましたが、まだ残っています。

地元俗称では、「飛行場沼」とも言うとか。
今では国道463バイパスが出来た関係もあり、すんなり池まで行けなかったりする事をご報告しておきます。

この池、池の周囲に用水路が張り巡らされていて、池には釣人が掛けたであろう足場板の様な橋からでしか入ることが出来ませんでした。現在の治水系統からも切り離されている様でしたが、その関係か良い釣り場になっている様で、こんな看板もありました。


話を3日に戻しまして、格納庫跡先の滑走路跡道路との間にあるのが、当時設けられた排水用の水路。

滑走路の東西に一本づつ、平行して南北に同様の物が設けられており、堅牢な作りなので撤去もされず残っております。

形状はボックス状の鉄筋コンクリート製で、上部には出水を取り込む為の穴が点々と設けられています。なんでも、「戦車が乗っても壊れない」とか・・・
そもそも、なんでこんな作りの排水路を設けたのか?

これは推定ではありますが、滑走路と平行する東西の部分は当時の他の飛行場で見受けられる「離着陸帯」として整備しようとしたのでは無いかな?と。
飛行機が上を通るので、この様な堅牢な作りの排水路が出来たのではと推測する次第であります。
それにしても、ゴツゴツした作りが戦争末期の時世を想像する事が出来ます。

こちらは、滑走路東側の水路。

上に土が覆いかぶさっている所などは、ただの農道の様ですが、この下にも水路は残っています。
この水路を初めて見た印象として、「たまった泥はどうするのだろう?」と言う素朴な疑問がありましたが、徘徊していると答えらしき物が。

所々に、蓋が開けられる様になった箇所があり、そこから掻き出す様な感じになっていました。
排水路跡も探索したので、当時の滑走路跡の道路に戻り北へ。

元々の滑走路は、巾60メートルのコンクリート舗装だったそうですが、終戦後コンクリは剥がされて復興資材に転用され、現在見られる巾狭の道になったとの事。今の道は幅員10メートル位で、この左右両脇の建物がある辺りも滑走路だったそうです。

以前は、産廃業者の施設ばかりだっと様ですが、通ってみると何だかクルマのカスタム系なショップが多いのが目に付きました。

滑走路跡の道を北に進むと、先ほど東西に抜けた水上公園の入口脇に至るのですが、公園の入口そばにある歩道橋が当時の北エンド辺り。

はみ出し話ですが、この水上公園。夏場は当然プール主体で営業していますが、今時はプールに魚を放し釣り堀として営業してたりします。

ずいぶん前に、連れられて一度行きましたが、ボウズでした・・・釣り堀オープン直後が、放した魚がスレて無く釣りやすいとの事。

この北端から、西にちょっと離れた所に当時作られた施設と、はるか離れた岩槻の地にもう一つ飛行場関連の物があるのですが、またまたここで切らさせて頂きます~。

「その3」は、残りの光景及び素朴な疑問編と参考リンク集の予定であります。

続く
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越谷の飛行場跡探索・その1 [飛行機]

今回は先月から数回探索して来た、今では「越谷陸軍飛行場」と呼ばれる事が多い周辺の徘徊記録その1です・・・中々手短にまとめる事が出来ませんでして・・・ゴメンナサイ。

今回のお題な場所はこの辺り、現在(H27)の行政区画で言うと、埼玉県はさいたま市岩槻区と越谷市の境目にあたるエリアになります。

この辺り、何だか妙に周辺と違う直線道路が合ったり、周囲の道とは方向が違う取り付け方だったりなんかと見て取れるかと思いますが、この一帯が飛行場として開発された頃の名残り。

当時はまだ、さいたま市(岩槻市)や越谷市などの大きな自治体では無く「新和(にいわ)」村及び「荻島(おぎしま)村」だったため、村名の「新和飛行場」、「荻島飛行場」とか、土地の名前の「論田(ろんでん)飛行場」、「末田(すえだ)飛行場」などの俗称で呼ばれていた様子です。
結局航空基地として未完のまま終戦を迎えたためか?制式な名称は無かった様子。
今では、最初に書いた呼び方が浸透している様ですが、いささか疑問があるおいら。この辺は最後に書いておきます。

さてさてこの飛行場、本土決戦に向けた首都防空力増強のため昭和19年7月に着工し、同年10月には竣工の予定だったのですが、工期が遅れに遅れ周辺住民の挺身隊や朝鮮人の使役(強制労働?かも知れません・・・)なども動員し、結局工事完了したのは翌20年8月。
8月と言えば、15日で終戦になったため、結局本来の目的には間に合わなかった幻の飛行場となってしまいました。

とは言え、滑走路は使われた事もある様でして、終戦間際に一式戦・隼が1機着陸した物のオーバーランして大破したのみと言う話や、二式複戦・屠龍海軍の局地戦・雷電等が飛来して実際に離着陸したとか、終戦後米軍のP-51が降りたなんて話がありますが詳細や真偽のほどは良く解らず。
この辺の疑問推測は後にします。

上が、現在国土地理院の航空写真閲覧サービスで見る事が出来る一番古い現地の航空写真。米軍機撮影の物で、終戦から半年ほど経過した昭和21年3月の同地。
緑線で囲ったのが、何となく解る基地外周の境界。
位置参考用として右横の青線で囲んだのは、宮内庁埼玉鴨場です。ご参考まで。

見た印象としては滑走路は出来上がっている物の、附帯設備が不完全と言った感じで、贔屓目に見ても「工事完了」と言うには程遠い印象。
ただし、滑走路なんかは欺瞞用に迷彩でも掛けていた感じでして、もう少し後の航空写真では滑走路や誘導路がハッキリ見て取れます・・・もう少し後の航空写真が、下の物。

滑走路は、両エンドに方向変換用ターニングサークルが付いた他基地の当時物航空写真でも見かける作りなのですが、誘導路にかなり違和感を感じるおいら。
最初から、この構想だったのか地形の関係でこんな感じになってしまったのでしょうか?

現在では、このエリアのすぐ東側を国道4号バイパスが南北に貫いておりますが、バイパスが通っている辺りは今でも台風や大雨で冠水通行止めになる頻度が高いエリア。
70年前は今以上に地盤が弱かったり排水も良くなかったりと想像するおいら。当時は重機なんて機械力も皆無に等しい状態だったため、かなり難儀した工事だったのは無いかなと推定しております。

余談ではありますが、数年前の竜巻が発生したと推定されるのがこのエリアだったり・・・

終戦後は米軍が進駐した物の、こちらはすぐに接収解除され、陸軍省解体に伴ない他の基地跡同様大蔵省管理となった同地。その後引揚げ者や開拓者に払い下げられたとの事。

と、長い長い前説でしたが、徘徊話を展開いたします。まずは、基地の入口(営門)では無いかと思われる所から徘徊開始。
誘導路の下側、方角で言うと南東に当たる位置にまばらですが兵舎と見られる建物が点在しています。

そのエリアと付近の集落を繋ぐように伸びる道路が、多分?営門が所在した(あるいは営門となる予定だった)可能性が高いかな・・・と推測した次第。
現在の同地が、こちら。

失礼な表現ですが、この辺にしては何だか無駄に広い道路が伸びております。
この通りを先に進むと、誘導路脇の指揮所と見られる建物が建っていた所まで行く事が出来ますが、今は当然全然面影もありませんでした。

上の画像が誘導路跡に沿って残る道筋の北側を見た図ですが、当時よりも道幅はかなり狭くなっております。南側は、最近越谷辺りでも少なくなった未舗装路が少し残っていたり・・・

舗装の需要が無いからでしょうが、こちらも知らない人が見ると無駄に広い道幅な印象でしょうね~。

ここから、当時の兵舎跡地に残る建物を確認するために、一度先ほどの営門?位置まで戻ったおいら。
建物は長屋状の物がまだ一つ残っていましたが、お住まいの方もいらっしゃるようなので画像は割愛致します。代わりに、勤務先にあった20年くらい前の住宅地図画像でちと解説を。

他に建物が無かった頃、採光が良い様に?道筋関係なく建てられた建物が兵舎の名残り。
三棟の長屋状の物が平成になるまで現存していたようですが、その後の宅地開発で画像のグレーに塗りつぶした建物は今は無く、赤く塗りつぶした一棟だけが現存しております。

見た感じでは、建物的には兵舎をそのまま転用した物では無いような印象でしたが、詳細は不明であります。

ここから、当時の基地外周であろうと思われる道筋に沿って一回りして、今も残る飛行場の痕跡を探りに行ったのですが、ここで一旦切ります~。

その2に続く
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